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今日は花火大会だ。
大谷川沿いの芝生にハン師匠とビールやたこ焼きを持ち込み、うっとりとスターマインを見上げる。
(以下抜粋)
「日本人が花火好きなのは、火の民族の記憶だ」と書いたことがある。高校のときの地図帳をひらくと、活火山の分布が赤い丸で示されている。スマトラ、ジャワ島も多いが、日本列島は火山列島だ。
オレたちの祖先は火山とともに生きてきた。
いつ噴火するともしれない火山のふもとに住み、山を神と畏れ崇め、地震の災害と温泉の恩恵を受け継いできた。
その昔、火山の噴火は祝祭であり、地震は大地の陣痛だった。
日本人というパスポート上の区分ではなく、危険きわまりない火山列島のうえで生き抜いてきた民族(もし海の水をぬ いたら、島国というのは海底からそそり立つ山頂だからね)の記憶なんじゃないかな。
花火や温泉や桜は、火の民族の生死観に深くかかわっていると思う。
じつは天皇崇拝や神風特攻隊も「大和民族」の特許ではなく、「火の民族」の記憶なのかも。農耕民族の侵略によって火山が天皇にすり替わり、火の神の怒りを静めるために火口に飛び込んでいった若者たちが特攻隊へと受け継がれた。
そんなことを考えさせられる作品を見た。
雨宮処凛、主演のドキュメンタリーフィルム「新しい神様」だ。
総予算30万円(しかもほとんどは飲み代)という超低予算にも関わらず、ベルリン国際映画祭、アジアドキュメンタリー映画祭(インドネシア)、香港国際映画祭、全州国際映画祭(韓国)などで絶賛され、日本のメディアを大いににぎわせた問題作だ。
1年まえにユーロスペースでロングランしていたときも、なかなか都合がつかず雨宮処凛ちゃんには申し訳ないと思っていた。
「平成のええじゃないか」というイベントに参加していた当時、処凛ちゃんの所属していた極右団体「超国家主義、民族の意志同盟」の集会に誘われ、委員長の礼儀正しさと人柄に感嘆したものの、その後駅前で手回しオルガンを弾く外国人を袋だたきにしたといううわさを聞いてがっかりした記憶がある。右翼も左翼も学生運動もニューエージも、自分と「ちがったもの」を排除しつづける思想からは新しいものは生まれない。
「処凛ちゃんもそんな迷路にはまったのか」とオレは勝手に思いみ、あえて東京まで足を運ばなかったのかもしれない。
ところが、開けてびっくり玉手箱。
「新しい神様」はむっちゃボーダーレスな映画だった。
「自分ってなに?」
処凛ちゃんはくりかえし問いつづける。
この映画が多くの人々の共感を得たのは、現代人の誰もが抱えるこの疑問を暴き出したからだと思う。
右翼パンクバンドのヴォーカルとして「ヘドが出るほど平和ボケな日本」とアジりながらも、「わたしは他人に説教するような資格なんかない」と落ち込み、北朝鮮でよど号をハイジャックした人々と乾杯をし、「恐いよう、早く帰りたいよう」と泣き、土屋監督に愛の告白をする。
ヴィデオカメラを処凛ちゃんにあずけ、ひとりごとを撮らせるという土屋監督の手法が効いている。観客は処凛ちゃんに相談され、とともに悩み、いっしょに答えを探していく。ウォーホルのあみだしたコンセプトをこれほどまでに進化させた作品をオレは知らないし、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のズームアップをはるかに越えた生々しさを生みだしている。
とちゅう何度も吹きだし、応援し、泣きそうになる。
そして最後のオチは最高におかしく、深い(これは観てからのお楽しみ)。
TUTAYAとかのレンタルビデオ屋に並んでいるから、悩める人は(人間全員)ぜひ観るべし。
太田出版から出てる「生き地獄天国」という処凛ちゃんの自伝を読んでほしい。
このあいだのライヴの打ち上げで、オレも宅八郎さんも処凛ちゃんも同じ編集者落合さん(自殺マニュアルなどのヒットメーカー)から本を出したことで盛り上がった。
子どものころからずっといじめられっ子だった処凛ちゃんは、ヴィジュアル系バンドのセックストーイとなり、なんども自殺未遂をくり返してきた。悩み傷つきながらも必死に生きがいを探す姿は、大きな勇気をくれるだろう。
今、処凛ちゃんはアイヌのシャーマン山道康子(アシリ・レラ)と出会い、さらに奥深いルーツにたどり着こうとしている。「自分がない」と言いながら、スポンジのように新たな出会いを吸収しつづける処凛ちゃんほど、成長が楽しみなやつはいない。
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8月2日(木)
マヤ暦1月8日
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TUTAYAから誕生日割引の500円券が送られてきたので、ヴィデオを借りてくる。昨日の「新しい神様」があまりにもおもしろかったんで、波に乗ってしまったようだ。
去年の春、映画館で見るはずだった「ブエナ★ビスタ★ソシアル★クラブ」は、じつに味わい深い作品だ。
監督のヴィム・ヴェンダースと音楽家ライ・クーダーは「パリス・テキサス」以来のコンビである。
60〜70年代のキューバで全盛を極め、今では忘れられた老ミュージシャンを一堂に集める。
90年もの人生を刻み込んできた老人たちの顔はなんともいえない魅力にあふれ、天国も地獄も知り尽くした言葉には重みと同時に軽妙なユーモアが混じる。
リードヴォーカルのイブライム・フェラールは数年前に引退していた。
「人生につらいことがありすぎて、歌をやめたよ」
ラストに彼がカーネギーホールの大観衆をまえに涙をこらえる表情がたまらない。植民地時代、奴隷貿易の中継基地としてキューバは栄える。アフリカから狩りだされた彼らの祖先は、タイトパッカーズというぎゅうぎゅう詰めの奴隷船でアメリカに売られる。ほとんど食事も与えられず、身動きがとれないほど満員なので糞尿も垂れ流しだ。長い航海を終えるころにはたくさんの死者が出、ほとんどが瀕死の状態だ。それでは商品にならないから、いったんキューバで「栄養補給」させられる。健康をとりもどし、肌のつやもよくなったところでフロリダやニューオリンズに「水揚げ」され、競りにかけられた。
その後もキューバはアメリカの支配下にあり、マフィアの経営するカジノやリゾートとして搾取されつづける。
この映画に登場するミュージシャンたちは、1900年から20年代に生まれた。
カストロやチェ・ゲバラによる嵐のような革命、ケネディー大統領時代のミサイル危機、アメリカの経済封鎖で貧乏のどん底をくぐった時代に、彼らは夢を与えつづけた。つらい労働や空腹を忘れるためにも、甘く激しい恋を歌いつづけたのだ。やがてアメリカン・ロックが流入し、彼らの「演歌」は古いものとなり、忘れ去られていく。
老人ほどカッコイイ者はいない。
少年時代祖父母に育てられたオレは、老人の話を聞くのが好きだ。
戦争や食料難、そして恋。
生きて話を聞けるのが奇跡だと思えるくらいに、厳しい時代を生き抜いてきた先輩たちだ。乾いたよだれがはりつく笑顔に、しわだらけの手に、無数の出会いと別れが刻み込まれている。
アイヌやインディオは老人を「神に近い者」として崇めてきた。
いつからだろう、オレたちが老人の話を聞かなくなったのは?
どうしてだろう、老人を厄介者と見下すようになったのは?
コンピューターを使えないからバカじゃない、使う必要がないほどの知恵を蓄えているんだ。彼らのよこに腰をかけて、ゆったりと話しかけてごらん。きっとキューバ音楽のように豊饒な知恵を引っ張り出せるはずだから。
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8月3日(金)
マヤ暦1月9日
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世界中で巻き起こったポエトリー・リーディング・ブームの火付け役となった映画「Slam」を見た。
映画自体はちゃっちかったが、ヒップホップから進化というか、先祖返りしたリーディングの(刑務所内での)シーンはカッコよかった。
オレも一度留置場にぶち込まれたことがあるが、ギャングや麻薬売りたちの匂いがよみがえってくる。
貧民街のストリートはタフなところである。
赤ちゃんを背負った母親がヘロインを売り、娼婦たちは客のとりあいで髪を引っぱりあい、子どもたちが遊ぶかたわらで、ギャングが頭をぶち抜かれる。日常は血と麻薬の煙と性器の擦れあう臭いと騒々しいラップミュージックで充満し、いつでも死が身近にあった。
今から思えば「まるで映画のような」世界だが、たしかにオレはそこにいた。
親元の金をくすねた売人が翌日にはイーストリバーに浮かび、ヘロインを分け合った友人はエイズで死んでいく。警官のナイトスティック(棍棒)と極道の銃口はつねにとなりにあったし、それが普通の生活だと思っていた。他人の死にも、自分の死にさえ興味はない。考えることはたったひとつ、つぎのショット(ヘロイン)を
どうやって手に入れるかだ。
「Slam」の主人公レイはジャンキーではないが、絶望的な日常を言葉に変換する能力を持っている。同じ「詩」なのに、日本の観念的な現代詩とは正反対な代物だ。
レイにとって詩は、「目的」ではない。
絶望や人とのあいだに築かれた壁を爆破するための切実な「手段」だ。
言葉は人間のみに与えられた最終兵器なのだ。
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8月4日(土)
マヤ暦1月10日
満月
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ベルリン映画祭で最優秀新人監督賞を受賞した「LOVE JUCE」を観た。
監督の進藤風は、野ざらし画廊の「いい人」展でも活躍してくれた「マブ弟子」のひとりだ。「新しい神様」の雨宮処凛といい、最近マブ弟子たちに先を越されている。
風は25歳の女性監督。おじいさんが、黒沢や小津にならんで日本を代表する進藤兼人ということもあってプレッシャーも強いはずだ。ヴィデオパッケージの裏にも「進藤兼人の孫娘」などと書かれていて、ちょっとかわいそう。しかし風は天然のほほんキャラで、実にのびやかに作品を創っている。
いきなりクラブでマリファナを吸うシーンから映画ははじまる。
アルミフォイルでつくったパイプがリアルである。「こいつ、知ってるな」って感じ。
宝塚系のボーイッシュでストイックな千夏はレズで、子どものように自由奔放なルームメイトの今日子に恋心を抱いている。
二人の暮らす東京郊外の一軒家やガード下の風景、すべての画面に風の美意識が行き届いていて、驚かされる。ストーリーを偏重する日本映画とはまったく異質の感性が、処女作でいきなり国際的評価を得た要因だと思う。
河原の土手でふたりはフライドチキンを食べながら会話する。
「ねえ、日本人で女の人を食べちゃった人のこと知ってる?」と千夏は訊く。
「あんたが死んだら食べてあげるわ」と無邪気にこたえる今日子。
オレがはじめて風に会ったのは、パリ人肉殺人事件の佐川一政さんが毎年多摩川ぞいの公園で開くパーティーだ。当時映画学校の学生だった風は、ゼミのレポートで佐川さんをインタビューしたという。
一見、青春映画ではじまったストーリーはとんでもない結末を迎える。
不思議な不思議な余韻が残った。
現実と夢想のあいだに引かれる線がぼやけて、どちらともない空間に浮かんでいるような感覚……みょうに懐かしく、心地よい。
そこは日常と非日常、善と悪、愛と憎しみ、異性と同性、快感と苦痛、喜怒哀楽を越えた「どこでもない場所」だ。
画家が見ることのできない風を描くとき、揺れる樹木やはためく布地を使って表現する。
「風」という名前をおじいちゃんからもらった新人監督は、
「見ることのできない場所」に人々をいざなうため、
「見ることのできるフィルム」を焼き付けたのかもしれない。
「LOVE JUCE」を観終わってシエスタ(昼寝)をしたら、今日子といっしょに火星に行く夢を見た。
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8月5日(日)
マヤ暦1月11日
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ハワイ島の高速道路で3日午後0時15分(日本時間4日午前7時15分)ごろ、日本人観光客18人を乗せたバスが側溝に転落し、運転手を含めた19人が負傷した。
一行はホノルル市内の観光会社が募集した、ホノルルからの日帰りツアーだった。ヒロ市からハワイ火山国立公園に向かう途中、前の車が急停車したため、追突を避けようとして1メートル下の側溝に転落した。事故当時、強い雨が降って見通しが悪く、路面は滑りやすくなっていた。(朝日新聞より抜粋)
7月26日の日記でハワイ島の聖地にJALが日本人観光客向けのゴルフ場を建設していることを書いた。83年から爆発を繰り返すキラウエア火山の国立公園はハワイ島の東南部にあり、南コナの近くだ。しかも満月(ハワイ語でアクア)とくる。
いやな予感がよぎる。
カフナ(シャーマン)が動いた?
荒唐無稽なことだと笑われるだろうし、オレだって単なる偶然と思いたい。しかしアマゾンやアフリカでシャーマンたちの不思議な力を見せつけられてきたオレはどうも深読みしてしまう。
ハワイには「死の祈り」をおこなうカフナ・アイ・ピラウという呪術師たちがいた。彼らは「人々を救う」というカフナの伝統から逸脱し、金やエゴのために黒魔術を使う。正統なカフナはこれらの呪いを防ぐ「オキ」「カラ」という対抗呪術を使っていた。
待て待て、冷静に考えてみよう。
現代では観光客や老人をあざむく偽カフナがほとんどなので、黒魔術を使えるカフナ・アイ・ピラウは残っていないんじゃないかな。
「日本人観光客が(たとえ彼らがJALを使ったとしても)大地の神の怒りに触れたのだ。ざまあみろ」という考え方も危険だ。
ハワイの神話に登場する女神ペレが力を行使するのなら、なんの関係もない観光客じゃなく開発を進めるJALの幹部だろう。古代から崇拝される「カネ」は愛と平和の神だし、「カナロア」は癒しの神だしね。
JALは墓を掘り返したうえにゴルフ場と高級リゾートマンションを建てるという。
古代では巨大な建造物を造るときには、「人柱」が要求された。
これもまったくの迷信ではなく、地球磁気学はこう説明している。
今までなにもなかった土地を掘り返し、大きな建造物(=遮蔽物)を建てると、磁気が狂う。それが人間の側頭葉などに影響してバランス感覚を乱したり、事故を起こさせると。
オレも昔、渋谷の工事現場で働いていたとき、3階から転落する職人を見たことがある。さっきまで普通に働いていたのに、ふらふらっと縁へさまよい出たのだ。まるでなにかに釣り込まれるように。
もう一つの要因は人々の想念だ。
「祖先の墓を掘り返さないで」、「自分たちの土地を荒らさないで」という集合無意識が、なんらかの影響を及ぼしたのかもしれない。
統計によると満月には交通事故や殺人、出産が多い。ましてや紀元前3000年以来の太陽黒点活動のピークだ。歴史的にもアメリカ独立戦争、フランス革命、ロシア革命、2度の世界大戦、60年代の学生運動などが黒点活動のピークと重なっている。
たとえ目に見えない力が働いていたとしてもだ、オレはハワイの太陽みたく楽天的にカフナ(シャーマン)を信じている。
本来アロハ(愛)、マナ(パワー)、ポノ(調和)を基調とするカフナは、敵を倒すことを目的としない。日本人観光客やJALの幹部などに危害を加えるのではなく、お互いの意識を変えていくことを目指しているはずだ。
フラ・ダンスの「フラ」は「聖なる炎をかかげる」という意味で、孤立した習慣によってブロックされた気(マナ)の流れをつなげることだという。
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8月6日(月)
マヤ暦1月12日
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広島に原爆が投下された8時15分に黙祷しているとさまざまなことがよぎった。
95年に「Shadows」展を原爆ドーム前でおこなったときの、蝉時雨、太田川に反射する夏の太陽、がフラッシュバックする。
トクのお父さんは退院しただろうか?
ヒロシマ、ヒロシマというけれど、実際の人間に触れてみないと実感がわかない。翌年の「ピロシマ」と2年つづけて広島にかよい、さまざまな人々の声を聴いた。みんな「ヒバクシャ」だと後ろ指をさされるのを恐れ、自分の子どもにさえ体験を語らなかった。オレがトクのお父さんに話を聴くと、うしろめたそうに話しはじめた。
(以下Shadowsのエッセイから引用する)
当時小学校の教師をしていた彼は原爆投下を広島湾の江田島から見た。階段を下りる途中の彼に向かって窓ガラスが吹き飛んできたという。
家族の安否を確かめるため翌日入市した。帰ってきてない妹を探しに出たものの広島の街は焼け野原。あちこちに黒こげの死体が転がり、背中からはがれた皮を地面
に引きずりながら人々は水を求めてさまよう。彼が道を聞こうと肩をたたくと、女学生は倒れた。もうすでに死んでいたのだ。彼は叫び出したい衝動を抑えて走った。妹が顔中を水膨れにして帰ってきていた。
終戦後、彼は5人の健康な子供に恵まれ、幸福に暮らした。原爆のことは何ひとつ子供たちには話さなかった。そして50年後、大腸と小腸の間に腫瘍が見つかった。それが原爆のせいかどうかは誰にもわからない。もっと被害のひどい人に申し訳ないと今まで差し控えていた被爆者手帳を50年目にしてはじめて申請した。
原爆ドームが窓から見える市内の病院でトクのお父さんはおどけてみせる。酸素チューブを鼻にさし、よれよれの浴衣でVサインをつきだす。
「みんなは被爆者をかわいそうかわいそうと言うけれど、地獄から不死鳥のようによみがえってきたんだ。偉い偉いとほめてもらいたいね」
オレが広島の人たちから学んだことは、死の悲惨さではなく、生きることの力だった。
今こうしてオレが使っている電気も原子力でつくられる。25000年後まで地球を、未来の子どもたちを、汚染しつづける廃棄物をどうするつもりなんだ。
靖国神社や教科書問題などで時間をむだにしないでくれ。
1分1秒でも早く母をレイプするのをやめなければ。
子どもたちは永遠の荒野をさまようことになる。
以下、朝日新聞からの抜粋をのせておく。
広島市で開催中の原水禁日本協議会(原水協、共産党系)の世界大会・国際会議で4日、米国内やマーシャル諸島、旧ソ連のセミパラチンスクなど、核実験場や核施設近隣地域の住民代表らが、各地の被ばく状況を報告した。
500回に近い核実験が実施されたカザフスタン・セミパラチンスクで住民の被ばく調査をしてきた植物学者のゼニスグル・コナロワさん(57)は、昨年末、新しい反核団体「女性と子どものための反核同盟 サマル・サマンサ・サダコ公共基金」を設立したと報告した。
サマルは白血病のため14歳で亡くなったカザフスタンの少女で、サマンサは核軍拡競争の不安を旧ソ連指導者に手紙で訴えた米国の少女。サダコは千羽鶴を折りながら原爆症で亡くなった広島の少女だ。 コナロワさんによると、セミパラチンスクでは女性の70%に妊娠や出産に関する健康異常が見られ、子どもたちの50%が慢性疾患を抱えている。しかし、医療体制を整える財政基盤が政府になく、反核団体のようなNGO活動に頼らざるを得ないと訴えた。(19:59)
米国の自然資源防衛評議会(NRDC)など環境保護団体や調査研究機関14団体は2日、大手ガラスメーカーのHOYA(本社・東京、鈴木洋社長)の米国法人がローレンスリバモア国立研究所・レーザー核融合施設(NIF)に主要部品の特殊ガラスを納入している問題で、「公式文書からもNIFの目的が核兵器設計能力の維持・改善にあるのは明らか」として「核開発協力」を非難する声明を発表した。
東京で開催中の原水禁国際会議で代表が声明を読み上げた。広島、長崎両市長も抗議文を送っているが、HOYAは「NIFは新たな核兵器開発にはつながらない」としている。
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8月7日(火)
マヤ暦1月13日
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わら一本の革命家、福岡翁(88歳)をご存知だろうか?
世界中の砂漠を「粘土団子」なるのものでつぎつぎと緑化させていく魔法使いだ。
大正二(1913)年、福岡正信は愛媛県伊予市に生まれる。
二十五歳のころ、横浜税関植物検査課に務め、検疫のかたわら植物病理研究室で顕微鏡をのぞいているという暮らしぶりであった。
病気がきっかけで自分の人生を疑い、夜通し裏手の山をさまよい明け方を迎えたときに「神を見た」。
べつにキリストやブッダがあらわれたわけじゃない。
野の草に朝露がきらめき、木々が朝日に輝き、鳥たちがさえずる。
どこにでもある朝の風景に感動し、世界観が一変した。彼が見た神とは、自然そのものだったのである。
「神が山川草木に宿るのじゃない、山川草木そのものが神なのだ」と彼は悟った。
税関をやめ、日本中を放浪し、故郷に帰り、自然農法をはじめる。戦時中、高知県の農事試験場に務めたり、徴兵もされたが、ふたたび故郷で百姓をつづけた。
「人智は無用である」と豪語する彼の農法はあまりにも独自だ。
耕さない、水もやらない、肥料もやらない、草もとらない、虫も駆除しない、農薬もやらない。
すべてを完璧な神、自然にゆだねるのだ。
重労働と土地を枯らす化学農法に比べ、彼の自然農法は昼寝しながら倍の収穫量(一反につき二十俵、しかも土は肥えてゆく)をあげている。自然農法のまえには有機農法などその場しのぎのごまかしでしかない。
やがて福岡さんは農業界の原子爆弾にも匹敵する「粘土団子」を開発する。
にがり、布海苔、消石灰、薬草を混ぜた粘土で、多種多様な種をつつみこむ。それを手または飛行機で砂漠にまいていくのだ。
なんと種子の発芽確率は100%、「粘土団子」から出た根は、砂漠の地下の水脈に達し、その後芽を出すので、干ばつがひどくても枯れることがないという。
アフリカをはじめ、アメリカ、イタリア、ギリシャ、インド、フィリピン、タイ、そのほか世界中で絶大な効果をあげている。
現代の花咲かじじいというか、もう魔法使いだ。
さてさて今回のプロジェクトは、日本の国土の七倍が砂漠化している中国だ。
オレたちも魔法を手伝うことができる。
オレもさっそくスイカの種を送ろうと思う。スイカの種って買うと一粒20円もするんだって。1000円のスイカには500粒の種がつまってる。ということは1万円じゃん。
100種類以上の種をまくので、家庭の生ゴミからでる種はなんでもOK。
以下インストラクション。
果実の種子;柿、ブドウ、梨、りんご、夏みかんやレモンなどの柑橘類、メロン、西瓜、桃など
野菜の種子;南瓜、苦瓜(レーシ)、冬瓜、ピーマンなど
花の種子;マリーゴールド、ひまわり、おしろいばななど
とにかく種であればなんでも(どんぐり以外)一粒からでも受け付けてくれます。
皆さんから送られた種子は、福岡さんの片腕である本間祐子さんが現地に赴き、住民(子どもから大人まで)やボランティアとともに「粘土団子」を作り、みんなで砂漠に蒔きます。
家庭で食べ終えた「おいしい野菜や果物の種を集めて、砂漠緑化に協力」をお願いします。
<種の集め方>
生ゴミとなる野菜や果物の種は…
1、水洗いし、糖分やぬめりを洗い流す。
2、竹ざるなどに種どうしが重ならないように広げ、風通しのよい日陰で乾かす。
(発砲スチロールやガラス器など通気性のないものだとカビやすい)
3、種類別に分け、紙袋に入れ、植物名を書く。
(ビニール袋は湿気がこもるので入れないで)
<注意>
ドングリは集めていません(虫が出やすいので…)
1、必ず種類別に分けてください。
2、包丁で切れたり、割れたり、穴のあいた種は必ず取り除いてください。
3、種にカビが生えないようにしてください。
花やハーブ、庭木、街路樹、校庭の樹木の種も集めています。
*種の保管場所提供者(会社)<東京湾周辺>も探しています。
<送り先/問い合わせ>〒134-0088東京都江戸川区西葛飾3-14-15-1408
FAX/03(3869)7666
グリーンピック・福老緑之道 本間祐子
福岡正信さんの活動や思想について詳しく知りたい方は次の本をお薦めします。
『自然農法 わら一本の革命』(春秋社)
『<自然>を生きる』福岡正信(聞き手)金子寿郎(春秋社)
*金子寿郎さんはNHK「こころの時代」に進行役をされている方で、この本は福岡さんの出演番組をまとめたものです。
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8月8日(水)
マヤ暦1月14日
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米の話でひとつ思い出したことがある。
あれは94、5年のことだったと思う。オレは吉祥寺の六畳一間、風呂なしのアパートに住んでいた。アート活動のほうが忙しくて、定職やバイトにも就つけなかった。
ジュリアーナ東京などを手がけた建築事務所がときどき仕事をまわしてくれ、レストランの壁画などを描いていた。
※ふと思い立って今、電話でたしかめてみた。広尾日赤病院ななめまえのイタリアレストラン「グリフォン」(南青山7−13−13。電話03−3498−2810)はまだ営業しているという。入り口の階段に描いたミケランジェロのデッサンや店内の壁画が残っているので、気が向いたら食べに行ってみて。値段も手ごろだし、味も抜群だったよ。
話をもどそう。もちろんそんな仕事は年に数回しかないし、絵に描いたような貧乏アーティストの暮らしだ。
商店街から盗んできた観賞用の花キャベツをゆでたり、電話帳をお湯でふやかしマヨネーズ(なぜか冷蔵庫にはマヨネーズだけがあった)をかけて食ったこともある。
日本中が米不足と騒ぎ、タイ米を輸入したら大量にあまってしまった。米屋は日本米を買った客に強制的にタイ米をつけるという異常事態だ。家庭では「タイ米なんかまずくて食えない」と捨てているらしい。
オレのコンセプチュアル・アーティストとしての直感がひらめいた。なにしろアーティストというのは人と反対の発想をするのが仕事だからね。
地獄で蜘蛛の糸を見つけた餓鬼のごとく飛び起き、ワープロでこんなポスターをつくった。
タイ米を捨てないで!
わたしたちは皆さまに食べていただくため生まれてきたのです。
捨てるまえにご一報ください。回収に参ります。
稲穂の会
自分でつけておきながら「稲穂の会」には空っぽの腹を抱えて笑った。もと犯罪者でスカトロ書道なんかをつくってる危険人物が「稲穂の会」だぜ。しかし笑ってる場合じゃない。気高く餓死するより、生きのびることのほうが先決だ。
ちゃんと電話番号をちぎれるようにタコ足状にはさみを入れた。
コーポやスーパー、米屋の近くの電柱にポスターを貼りまくる。
するとその日のうちに電話があった。ピザの宅配屋よろしく地図で正確な住所を確認し、「一時間後にうかがいます」と電話を切った。
無地の黄色いTシャツがあったので、墨汁で稲の絵を描き「稲穂の会」といれた。ドレッドを束ね、なるべくきれいなジーンズをはき、バックパックを背負ってママチャリにまたがった。
三鷹の市民プール近くの閑静な住宅街で住所を探していると、中年の主婦が声をかけてきた。
「稲穂の会の方ね?」
あまりに唐突だったせいもあり、思わずオレは噴き出してしまった。せき込んだふりをして必死にごまかす。
「そ、うです。わたくしは「稲穂の会」武蔵野支部の者です」
ルックスで怪しまれるかと思ったが、有機農法などをやっている青年に思われたらしい。奥さんは近所の友人から集めておいたという大量のタイ米をくれた。
「助かったわ。みんな処分に困っていたの。そのお米はタイに送り返すの?」
「はっ、そのですね。つまり、そのう……東南アジアから来た留学生たちに配るんです。みんな故郷の米が食べられると大喜びです」
その後「稲穂の会」は十数軒の家にうかがい、二週間のあいだにすばらしい成績をあげた。オレの押入れが米であふれ、三ヶ月は腹いっぱいのめしにありつけた。
しかしひとつだけ困ったのは、汚いかっこうで近所をうろつけなくなったことだ。一度コーポで買い物をしていたとき、いきなり「稲穂さん!」と声をかけられ、キュウリを床に落としたことがある。
ジョン・レノンは「ユーモアは貧乏人の財産だ」と言ったが、貧乏だからこそ生まれる知恵もある。
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8月9日(木)
マヤ暦1月15日
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隊長と師匠がうちに来た。
このキャラを知らない人は、7月13日前後の日記を参照してください。
「理想の死に場所」という話題になった。
究極の釣り人である隊長は、二十歳のころ樹海をさまよったそうである。水彩絵の具と画用紙をもって、「死に場所」をさがした。多少の自殺願望はあったが、とりあえず自殺の「人気スポット」を見学にいった。樹海の奥へ2時間ほど分け入って、ブルーシートを見つけた。なにげなくめくると酒びんがある。
ここで人生最後の祝杯をあげたあと、こいつはどこかで首を吊ったのだろう。
樹海の風景をスケッチしようとしたとき、故郷の川がフラッシュバックし、その絵を描いた。
「いやあ、実際樹海にいってみると自殺する人の気持ちがわかりますよ」と隊長は言う。
「つうかね、わかりたくないね」
師匠も樹海へ行ったが、アスファルト道路から50mほどいったところで引き返したという。
「最近伯母と母方の祖母の葬式にいったんですけど、火葬はいやだな。ぼくは人間がいないところで微生物に食われたい」と隊長。
「おれはひとりじゃ淋しいから、街で死にたい」と師匠。
「オレはチェーンソーで体を真っ二つに切ってもらって、10年に一度ギャラリーでご開帳するのもいいな」とオレ。
君の「理想の死に場所」はどこだろう?
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8月10日(金)
マヤ暦1月16日
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今日はひさびさに聴いたレイジ・アゲンスト・マシーンについて書こうとしたが、伝言板の時代劇で力尽きてしまったので明日書くね。
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8月11日(土)
マヤ暦1月17日
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このあいだ福岡翁のことを書いたが、オレにとってはレイジ・アゲンスト・マシーンも同じ革命家だ。
「ロックは死んだ」
ピストルズを解散するときにジョン・ライドンは吐き捨てた。
六十年代にロックは学生運動を煽り、反戦に火をつけ、社会を根底から揺すぶり、原子爆弾に対抗する危険な武器だった。やがてツェッペリンやストーンズが商品化され、ストリートからロックが奪われる。
自分たちのオモチャをとりかえすために決起したのがパンクだった。
もちろんピストルズは当時ブティックのオーナーだったマルコム・マクラレン(このまえロンドンの市長選にでて落ちた)が仕組んだ人形だったのはじゅうぶんに承知しているが、そんなことはどうでもいい。オレたちはパンクという武器によって、あらゆるお仕着せに「NO」と言えたんだから。
シド・ヴィシャスがヘロインで死に、クラッシュが空中分解し、パンクさえも商業主義に呑み込まれていった。
「ロック不在の八十年代」に台頭してきたのが、ヒップホップ(当時はラップと呼ばれていた)だ。
同時期にレゲエやハウスやノイズも生まれたが、収拾がつかなくなるので、ここでははぶく。
NYでヒップホップの創世に立ち合ったオレは驚愕した。パンクはロックの贅肉をそぎとり、3コードのみの叫びに還元した。しかしヒップホップは、数千年におよぶ音楽史最大のタブーに挑戦したのだ。
まさか音楽からメロディーをはぎとるなんて!
当時売り出し中のRUN DMCのメンバーと何度かJトレインで乗り合わせ、一度話しかけたことがある。オレは当時、マルコムの親友ユリ・コウチヤマが住むハーレムのアパートに通い、ブラックパンサーの残党とも親交をもっていた。しかしスパイク・リーの映画ができる数年前に、いきなり東洋人がマルコムの話をしだしたので、むこうもびっくりしていた。
黒人教会へ通ったものならわかるが、牧師の演説はヒップホップそのものである。
カーティス・ブロウ、ファット・ボーイズ、L.L.クールJなどがブレイクしていき、パブリック・エナミーへと進化する。
その前座をつとめていたのが、まだ無名のレイジ・アゲインスト・マシーンだった。
チカーノ(メキシコ系アメリカ人)のヴォーカル、ザック。南アフリカ開放ゲリラの父をもつハーバード大学を首席で卒業したギターのトム。彼らにおいてパンクとヒップホップはもっとも純粋な核融合を起こした。
レイジは、ラザロのように死に絶えたロックを生き返らせるという奇跡を演じた。強烈なメッセージと高い音楽性だけではなく、「音楽が社会を変える」という神話をよみがえらせたのだ。
今や1千万人のリスナーをもつレイジは、「チベット開放」を宣言し、メキシコのゲリラに参加し、無実の黒人死刑囚ムミアを支援する。
レイジの最高傑作「バトル・オブ・ロスアンジェルス」では、「ゲリラ・ラジオ」や「ヴォイス・オブ・ヴォイスレス」でムミアのことが叫ばれている。
昨日、音楽の相棒であるタケちゃんにこの曲を聴かせて途方に暮れた。
アメリカでムミアをサポートしつづける尼僧ジュンさんにたのまれ、「ムミアと人々に届く歌を作ります」と約束したが、
いったいどうやってレイジを越える歌がつくれるのか!?
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8月12日(日)
マヤ暦1月18日
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「夏休み」
いまだにドキドキする言葉である。
1年中夏休みみたいなオレでも、なんか甘酸っぱい感情がよみがえってくる。
みんなはどう?
たぶんカブトムシがファミコンになろうと、「一日中遊んでいられる」という解放感は変わらない。終わりぎわになってあわてて宿題をするってパターンも永遠不滅だろうね。
明日からオレも夏休みだ。
夕方5時に日光を出て、JR水戸駅で8時に加納さんとゴルゴ(新進気鋭の役者)と待ちあわせ、大洗のフェリー乗り場にテントを張り、翌朝9時の苫小牧行きフェリーに乗る予定だ。15日から20日までアイヌモシリ一万年祭で歌い、「風の子レラ」にサインをし、酔っ払う。
今回考えている企画は、「歌声喫茶AKIRA」。たくさんあるオリジナル曲のなかから一曲選んでもらい100円で「その人のためだけに歌う」というものだ。チャイを無料サーヴィスするし、お客さんもアマゾン製のハンモックに揺られながら歌を聴ける。ゴージャスでしょう?
なつかしいアボリジニのミュージシャン、グジュグジュとも再会できるし、ステージでは札幌在住の津軽三味線奏者ヒサオさんやインド人のタブラー奏者デニシュに例年どおりバッキングをつとめてもらうだろう。
去年はアイヌ語学校の子どもたちが歌う椎名林檎の「本能」の伴奏をさせられたが、今回はもとオウム真理教幹部「ショーコーマーチ」のオリジナルヴォーカル加納さんや、「新しい神様」主演の雨宮処凛ちゃんの伴奏もつとめることになるだろう。
祭りが終わったら羅臼で昆布漁をしている幼なじみ浜崎と四、五日北海道をまわる予定だ。
これで四月から休まず書きつづけてきたこの日記を二週間も休めるぞおー!
心地よい解放感にひたっているところに、オレのホームページの管理者であるハン師匠から電話があった。彼は明日の朝、バイクで北海道にむかう。祭りにたどり着くのは十六日くらいだという。師匠のクールな声がとんでもないことを告げた。
「祭りを実況中継しましょう」
マンモラホラチンチ〜ン!!
悪魔だ、こいつこそオレの夏休みを奪い取る悪魔なのだ!
憤りつつ、「夏休みの宿題をまとめてやらないでもすむ」という口車に乗り、しぶしぶオーケーした。
師匠がトラックと正面衝突したり、マックがどしゃ降りで浸水したり、携帯電話が届かない森から一日一回町へでて送信する義務を怠らなければ、
実況中継は可能だ。
もちろんメールも送受信できるし、cafe akiramaniaの掲示板も見られる。
いったい世の中が便利になったのか、不便になったのか、わからないではないか。
「オレの夏休みを返せー!」
と叫びつつも、「風の子レラ」の感想を一刻も早く訊きたいオレであった。
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8月13日(月)
マヤ暦1月19日
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夕方5時に日光を出発し、7時31分に水戸駅に到着。
待ちあわせた修行僧・加納さんがあらわれ、駅ビルの屋上にあるビアガーデンに行く。飲み放題食べ放題で3000円だが、やっぱ旅立ちには乾杯が必要なのだ。
それにしても、ゴルゴがこない。
ゴルゴは山崎哲さんの舞台に出演するはずだったのが、急きょ脱退したという。うわさでは8キロの激やせし、電話もとれないほどの落ち込みだという。もしや常磐線に飛び込んだり、早くも大洗海岸に打ち上げられているかもしれない。
そのときだ、わずかに人込みが引き、180センチを越す巨体が出現した。
「おくれてすいません!」
人々が引いたのはごっついがたいのせいだけではない。ゴルゴはただでさえ殺気に満ちた顔なのに、頭を刈り上げ、眉まで剃り落としていたのだ。
「もう人間に会わないと思い、眉を剃り落としたんです」
ゴルゴは苦悩に満ちたひたいに深いしわをよせた。
「まあまあそう深刻に考えないで、乾杯しようぜ。ゴルゴは金がないんだからただ食いしちゃえ」
「それはまずいですよ。食い逃げで逮捕されたらどうすんですか」
「そういう鋼鉄頭からたたき直さんとな。これは最高指令だ。ほれ、一気に飲み干せ」
オレはゴルゴに自分のジョッキを押し付ける。ゴルゴは従業員に気づかれていないかを確かめ、急いで飲み干す。
「いいぞゴルゴ、その調子だ。ほれ、もう一杯」
ゴルゴは決して酒に強くない。3杯もたてつづけにジョッキを空けると、赤タコになった。
「よし、つぎは食料調達の任務だ」オレは食べ放題用のトレイを差し出す。
「いくらなんでも、むりですよ。自分が金を払ってないのをウェートレスは知ってますよ」
「そのように軟弱な精神をたたき直すのだ。さっさと任務を遂行しろ!」
サラダ、おでん、唐揚げ、コロッケ、ハム、稲荷寿司、太巻き……
ウェイトレスのまえで食料をもりつけるゴルゴの手が緊張に震えているのが見える。うしろから忍び寄ったオレは、ゴルゴのうしろでわざとステンレストレーを落とした。
コンクリートの床に爆音が響き、ゴルゴがギクッとふりかえる!
その表情は恐怖と驚愕に満ち、この世のものとは思われないほどだ。
「あっゴルゴ、焼きそばが!」
せっかく盛りつけた焼きそばが床にこぼれ、あわてて拾おうとするゴルゴのところに従業員が飛んでくる。ゴルゴは眉間にしわを寄せたまま、おろおろと立ち往生する。こんなに注目を集めたら食い逃げ犯として逮捕されてしまうかもしれない。オレはさらに明日の昼食も注文した。
「ゴルゴ、ホットドッグ6人前」
「そんなあ、なんでいきなりこんな目に合わなくちゃならないんですか?」
今までもくもくと食べつづけていた元オウム真理教幹部加納秀一がゴルゴをにらむ。
「なにごとも修業だ」

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8月14日(火)
マヤ暦1月20日
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視界が空で覆われている。
一瞬どこで目覚めたかわからなかった。ここは大洗港フェリー乗り場前の芝生のうえだ。まわりには3組ほどテントが張られている。オレたちはテントを張らず、酔っぱらったまま寝袋で寝た。
なにしろ朝9時出発のフェリーの乗船時間は7時からなのだ。続々と車が到着し、サンフラワー号に吸い込まれていく。
なかでも目を引くのは迷彩服を着た自衛隊だ。20歳ほどの新入隊員たちは100人以上いるだろう。訊いてみると、単SAMミサイルの実射訓練に行くという。お盆休みにご苦労なことだ。
ゴルゴは突風の吹きつける甲板ではるかな水平線を見つめている。
役者同士の人間関係に疲れ、海で死のうとしたという。
オレはまたうしろから忍び寄り、ゴルゴのひざを抱えて一気に持ち上げた!
あっさり死ぬかと思い気や、ゴルゴは必死にベランダにしがみついた。
「な、なにをするんですか!」
「あれ、自殺するんじゃなかったの? せっかく手伝ってやろうと思ったのに」
オレはゴルゴに「風の子レラ」をわたした。
「つぎなる任務を命ずる。到着までにこの本を読了せよ」
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ゴルゴは一睡もせずに「レラ」を読でいる。
やつが途中でさぼらないようにオレはつきっきりで監視した。娯楽室の畳の上に寝ころんでゴルゴは武骨な背筋を痙攣させ、ぐしゃぐしゃに頬を濡らしてふりむく。
「お願いだからカンナ父ちゃんを助けてやってください!」
「そんなこと言われたって、もう出版したもんを書き換えられるわけねえだろ」オレはむげに答える。
「いくら作者だからってこんな残酷な仕打ちは許せませんよ」ゴルゴの握りしめた拳にちょっとビビった。こいつ本気だな。
「怒るなよ。なんとかするから、早くつぎを読め」
早朝5時15分、フェリーは苫小牧港に着岸した。
JR富川駅からバスに乗り、二風谷の康子さんのチセ(家)から車に乗り、祭りの会場に着いたのは昼過ぎだ。
森にかこまれた会場は文明から隔絶され、携帯の電波もとどかず、落ち着ける。ステージの正面に巨大なたき火があり、まわりをぐるりと出店がかこみ、テントが散らばっている。今年は600人もの人が全国から集まってくるという。
康子さんと三ヶ月ぶりに再会し、「風の子レラ」の出版を喜びあった。
オレたちは奥の小屋を借りたのはいいが、そのまえにいくつものテントが張られ、とてもチャイや本を売ったりする雰囲気ではない。したがって「歌声喫茶」計画は挫折してしまった。少しでも居心地を良くしようと、小屋を模様替えする。4人掛けのおんぼろベンチをふたつなかに運び入れ、アマゾン製のハンモックを真ん中につった。
初テント、初寝袋体験のゴルゴはいそいそとテントを広げている。昨日まで死ぬほど落ち込んでいたくせに、節操のないやつだ。
毎年祭りで会う酪農大学の連中もやってくる。みつるやヨネやカナやあゆも就職が決まり来年は来られるかわからないという。ミッシェルが電車とヒッチハイクでやってきて、かなとハンモックをとりあっていた。
盲目の長老、黒川伝蔵エカシの先導でカムイノミ(神への祈り)がはじまり、結婚式へとうつっていく。新郎モレウ(渦巻き)と新婦ノチュウ(星)は22歳同士の美男美女のカップルだ。柳を削ったイナウが13本並ぶ祭壇のまえには囲炉裏がしつらえられ、二人が神妙な顔でむきあう。山盛りのご飯を二人で分け合って食べるのが重要な儀式だ。喜びも悲しみもともに分け合っていくという誓いの象徴である。
勇壮なク・リムセ(弓の舞い)とエムシ・リムセ(刀の舞い)が披露され、山道アイヌ語学校の子どもたちが踊った。
夕方5時からはじまったライヴは、全国から集まってきたミュージシャンがさまざまな分野の音楽を聴かせてくれる。来日予定だったアボリジニのミュージシャンが来られなくなったのが残念だが、宴は真夜中近くまでつづいいた。
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8月16日(木)
マヤ暦1月22日
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「あのう、AKIRAさんですか?」
受付のところで見知らぬ女の子から声をかけられた。
「はっしーです」
おおっ、はっしーはcafe akiramaniaの掲示板でいろいろ祭りについて訊いてきたやつだ。オレは勝手に男だと思い込んでいた。はっしーはコンピューターを使って映画やヴィデオの編集の仕事をしている。きっと近い将来はっしーの知恵を借りる日が来るだろう。こうしてどんどんアーティストのネットワークが広がっていく。
それにしてもはっしーは誰かに似ている。少年時代に会った誰かなのだが、はっきりと思い出せない。
ムックリ大会にゴルゴが出るという。
ムックリという楽器は15センチほどの竹にヒモをつけ、口にあててビヨ〜ンビヨ〜ン鳴らす口琴のことである。これほど世界規模で分布する楽器はなく、東南アジアからユーラシア、ヨーロッパまで広がり、アイルランドなどは金属製である。
演劇界の人間関係によって舞台を断念したゴルゴは、ムックリ大会でもいいからステージへ登りたかったのだろう。口のはしが赤くなり、人さし指に水膨れができるほど、一心不乱に練習した。はじめてやったくせに、なかなか筋がいい。だんだんと震動音が増幅し、口の形で音色まで変えられるようになった。はじめはバカにしていたまわりの連中がゴルゴの急成長に目を見張っている。
「ゴルゴ、やるときはやるね。これなら入賞まちがいなしだ」
ゴルゴが敬愛するヨガの師匠、加納さんがほめる。ゴルゴは喜びをこらえながら、ビヨ〜ンビヨ〜ンと高らかにムックリで応える。
エントリーされた30人ほどがつぎつぎとステージで腕を披露する。
もちろん去年の優勝者など、数人の達人はいるが、このレベルなら10人の入賞者にゴルゴがはいるのも夢じゃない。
ゴルゴは威風堂々とマイクの前に立った。
オレたち身内から声援があがる。しかし水戸のビヤガーデンで見たごとく、ゴルゴの野太い指が震えていたのだ。聴衆が一瞬静まり返るが、音が聞えてこない。ゴルゴ自身も気づいたらしく、仁王のようなひたいに大粒の汗がにじんでくる。あせればあせるほど、ヒモを引く角度が狂い、竹のガチガチぶつかり合う音しか聞えてこない。
失格だった。
がっくりと肩を落としてステージを降りてくるゴルゴに、加納さんがとどめを刺した。その一言は演劇人としての致命的欠陥を指摘するものだった。
「ゴルゴ、本番に弱いね」
その夜のライヴで、オレはステージに立った。
相棒のタケちゃんが祭りに来られなかった。タケちゃんは宇都宮と今市にあるミキハウスの社長で、全国のミキハウスでもトップクラスの成績をあげている。そこを見込まれて、顧客向けのパソコン教室を開設したため、休みがとれなかったのだ。
オレはシャケやクマさんのパーカッションをバックに3曲ほど歌った。
「FuFu Bird」
「明るい未来へ 約してアカミラ」
「おまえの舌苔を陽にさらせ」
LOVE & PACE を歌うミュージシャンがほとんどのこの祭りでオレの歌は異端だ。オレはLOVE & PACEを能天気に叫ぶことはできない。
そこへ至るまでの「陣痛」を死ぬまで歌いつづけるだろう。
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8月17日(金)
マヤ暦1月23日
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昼過ぎにはハン師匠がバイクで到着した。
東北で2泊し、青森からフェリーで苫小牧にわたり、二風谷経由で会場のある貫別までやってきたのだ。
「パワーブックとデジカメもってきましたよ」
師匠は汗をぬぐう間もなく言った。
「残念ながら今年は発電機でやるんで、電源とれないってさ」
オレはうれしそうに答える。
師匠は一瞬むっとしたが、気をとりなして言った。
「まだ充電が5時間分あります」
3日間風呂にはいっていないオレたちは温泉に行くことにした。
みつるから借りたパジェロミニは4人乗りでせまい。がたいのでかいハン師匠が運転することになり、オレは助手席、ミッシェルとはっしーと加納さんがふたりがけの後部座席につめこまれた。
「えっ、おれの乗る場所は?」ゴルゴが訊いた。
「あるわけないじゃん」みんながこたえる。
「風呂にはいらないのも修業のうちだ」
加納さんが慰めにもならない言葉をかける。
しょげかえった巨体を残して出発した。いったいいつになったらゴルゴに幸せは訪れるのだろう。
富川の「百番」でむっちゃ美味い塩ラーメンを食った。ひさびさの文明食だし、やっぱ北海道の味覚レベルは高い。みんなはこの美味しさをいかにゴルゴに自慢するかで盛り上がった。
二風谷のビラトリ温泉が休みだったので、新冠(ニイカップ)にあるレコード温泉というところへ1時間かけていった。
ひなびた雰囲気を想像していたのに、新築の健康ランドだった。美空ひばりや昭和歌謡のレコードが展示してある、よくわからないコンセプトだ。丘の上にある露天風呂からは町の夜景が一望でき、オレたちは命の洗濯をした。まさか自分たちが遭難するとは知らずに……。
「やべえ、ガソリンがないや」運転手の師匠がぼやく。
まだ夜の八時なのに、ことごとくガソリンスタンドが閉店している。内地の感覚に慣れているオレたちには信じられないことだった。新冠、富川、平取と、すべてのスタンドは真っ暗だった。
エンプティーすれすれで二風谷にある康子さん家にたどりついたが、祭りの会場にもどるまでには4、50キロある。
オレたちが今晩帰らなかったら、車を貸してくれたみつるに迷惑がかかる。なによより、ひとりさみしくオレたちの帰りを待つゴルゴは事故が起きたと心配するだろう。この世にひとり残されたのではないかと、地獄の底をさまよっているはずだ。
オレたちは「風の子レラ」の舞台になったアイヌ家屋に泊めてもらうことにした。
その夜、ゴルゴにはとんでもないことが起こっていたのである。
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8月18日(土)
マヤ暦1月24日
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オレたちは朝の九時にあいたスタンドでガソリンをつめこむと、急いで祭りの会場にむかった。
とちゅう、乗用車がけたたましいクラクションを鳴らして止まる。パジェロミニを貸してくれたみつるだった。
「事故ったと思って探しに来たんです。もう少しで警察に届けるところでしたよ」
「すまんな、ガス欠で二風谷に泊まったんだ。ところでゴルゴも心配しているだろう?」オレは訊いた。
「それがあ……ゴルゴはUFOに誘拐されちゃったんです」
謎の微笑みを残してみつるは去った。
祭りの小屋に帰ると、ゴルゴがひとりハンモックに揺られていた。にんまりと気の抜けた表情は生気が感じられない。宇宙人に生体実験された話はテレビでもやっていたし、アマゾンではUFOに血を抜かれる事件も起こっている。北海道は円盤目撃のメッカで室蘭近くの八雲町にはUFOの墓場が存在するという。
「ゴルゴどうしたんだ。いったい昨日なにがあったんだ?」
みんなの質問攻撃にゴルゴはのっそりと上半身を起こした。
「みんなの無事をお星さまに祈っていたんです。すると、星がカクカクッと揺れて、不思議な飛び方をするんです。気がつくとひとりの女性がぼくの横に立っていました。ほんと、宇宙人かと思いましたよ。彼女は札幌のSMクラブで働く女王様で、誘拐されました」
「誘拐っておまえ、犯されたの?」
ゴルゴはぽっとほほを赤らめてうなづいた。
「てめえ、オレたちが遭難してるときに、ひとりだけいい思いしやがって!」
みんなはゴルゴに飛びかかり、ハンモックから突き落とした。
弓大会でオレと加納さんとミッシェルは段ボールに描かれた熊を見事打ち抜いた。ゴルゴは名誉をばん回しようと、気合いを入れてのぞんだ。たくましい腕がアイヌ弓をたわめ、弦を目一杯まで引き絞っていく。観衆も勇壮な狩人の姿をゴルゴに見、固唾を呑んで発射のときを待っている。
ボキッ!
弓が真っ二つに折れた。ゴルゴのあとにはまだ五十人ほどの人が順番を待っている。ゴルゴは申し訳なさそうに頭を下げ、自分の不始末を必死でわびた。運がいいのか悪いのか、わからないやつだ。
夜のライブでは、札幌在住のミュージシャン、津軽三味線の杉中久男さんとインド人のタブラー奏者デニシュと恒例のセッションだ。
「Take Me To The War 戦争に連れていって」
出だしにやる詩の朗読を津軽三味線とタブラーにのせるのは新鮮だった。
「ええじゃないか21」
AWAビートにのせ、観客が巨大なたき火の前で踊り狂う姿は、縄文の祝祭を思わせる。
「レインカーネーション」
輪廻転生をテーマにしたスローバラードだ。歌いながらふと、奇妙な確信がよぎった。
「この風景はまえにも見たことがある」
それも何度も。
炎に浮かび上がる人々の顔をまえに、オレは何万年も歌いつづけてきたような気がしたのだ。歌や絵や物語をとおして人々にメッセージを伝えていく職業、シャーマンの血が自分のなかに眠っているのかもしれない。
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8月19日(日)
マヤ暦1月25日
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世界中の映画祭を沸かせた「新しい神様」主演の雨宮処凛ちゃんと監督の土屋さんが到着した。
祭りはあと2日で終わりなのに、どうしても来たかったという。処凛ちゃんは雑誌の連載で、先月康子さんの家に来て対談した。大日本テロルというパンクバンドを率い、ミニスカ右翼として名をはせていた処凛ちゃんが、康子さんに魅せられた。映画のなかでは「私には、自分がないの」と落ち込んでいた処凛ちゃんだが、その柔軟さがカリスマたる所以だろう。
どどっと子どもたちに囲まれ、ミニスカ右翼がやさしい保母さんに変身してしまった。
さっそく加納さんのステージに連れ出され、オレがギター、処凛ちゃんがパーカッションでバックを務めた。
「もとオウム真理教幹部でショーコーマーチのヴォーカルだった人です」
オレが加納さんの正体をばらすと、たくさんの人がステージ前に集まり、加納さんの「仏教ポップ」を真剣に聞き入っていた。
「女性自身」の編集者、浦井美弥さんがやってきた。「風の子レラ」を読んで感動し、康子さんにインタビューしたいという。
おとといオレたちが康子さんの家に泊まったために、やっと連絡がとれ、すぐ北海道まで来ちゃうんだからすごい。根っからのあわて者で、ノリのいい性格は、すっかりオレたちに溶け込んでいた。
はっしーが「美弥」という名前から「弥七」というあだ名をつけ、しまいには「弥七、ちょろちょろしてんじゃねえ」などとからかわれていた。
今日はオレの誕生日なので、酪農大学のナオがオレの「カカブルース」に自分の詩をつけた歌を歌ってくれたり、康子さんからネックレスや久男&ユウコからCDをプレゼントされた。
おっとゴルゴからもビールをもらったが、河原で加納さんと練習しているとき、そのビールを自分で飲んでしまった。
ゴルゴは金もねえくせに一日じゅうなにかを食っている。この祭りに来てからなんと七キロも太ったという。凛々しい顔立ちは三木道山そっくりだが、だんだんふくらんでいく腹はジュゴンのようだ。本名の学(まなぶ)から、「マナティー」と名付けられた。
そういえば誰かに似ていると思っていたはっしーだが、やっとわかった。はっしーは「ミニラ」にそっくりなのだ。ミニラはのゴジラの息子で、あのびっくり眼がはっしーにそっくりだった。
そんなこんなでオレのハンモック小屋はいつも爆笑の渦に包まれ、みんなのたまり場となった。
たまり場で思い出したが、NHKの「しゃべり場」という番組に出演していた十五歳の女性アーティスト、リオとアカネのコンビが歌う椎名林檎の「浴室」と「歌舞伎町の女王」のバックを務めた。幼い顔に似会わずなかなか凄みのあるヴォーカルだった。
夜のステージはみつるたちのバンドで盛り上がった。ナオのジャンべとみつるのディジュリドゥーはいかしていた。観客総出で踊り狂った。ゴルゴの奇妙な首振りダンス、加納さんのヨガ踊り、弥七までキサナドゥー風の八十年代ダンスを披露していたのには笑った。
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8月20日(月)
マヤ暦1月26日
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今日で祭りも終わりだ。
ステージ横にすえられた祭壇の囲炉裏をかこんでみんながすわり、康子さんを中心にカムイノミ(神様への祈り)をおこなった。無事に祭りが終了したことをカムイに感謝し、みんなの平和と健康を祈る。トゥキという椀にいれた酒をまわし、スイカや手作りパンケーキなどを神様と分かち合う。
「また来年!」と抱きあい、つぎつぎと人々が引き上げていく。祭りのあとの淋しさにひたっていると、ゴルゴが泣きそうな声を上げた。
「うわあー!」
この祭りは子どもたちもたくさんいるが、犬も自由に走りまわっている。風に飛ばされたゴルゴの寝袋の下に犬の糞があったのだ。しかもまだ新しいやつで、表面が乾燥していない。この寝袋は友人に借りたものなので、ゴルゴはいそいで川に洗濯に行った。
スタッフや片づけを手伝う人は康子さんの家で打ち上げをする。毎年オレも出ているが、今年は人が多いので、もう一日ここへ残ることにした。オレとゴルゴは二風谷に泊まるつもりでテントをたたんでしまったので、三角錐型の小さな茅葺き小屋に寝袋を敷いた。
ゴルゴがヨネたちのテントに遊びにいって帰ってくると、オレのほかに三人が眠っているではないか。真っ暗闇のなか、自分の寝袋を探すが、見つからない。
真夏とはいえ北海道の夜は思いっきり冷え込む。ゴルゴは茅葺き小屋の入り口でひざを抱え、震えながら夜が明けるのを待った。
ほとんど凍死寸前でしらじらと開ける朝日に自分の寝袋を見つけた。それはマーちゃんという巨漢のおじさんの下敷きになっていたのだ。
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8月21日(火)
マヤ暦1月27日
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「まあゴルゴ、そんなつらい日々も今日で終わりだ」
オレは明るくゴルゴをなぐさめた。羅臼(ラウス)で昆布漁をやっているオレの幼なじみ浜崎が二風谷まで迎えに来てくれ、ゴルゴと三人で北海道を車でまわることになっている。ゴルゴは北限の宗谷岬や尊敬する役者、森繁久弥が歌った知床半島に強い憧れを抱いていた。まだ見ぬ北海道を車で案内してもらえるなんて夢のような話じゃないか。
朝の四時に羅臼を出発した浜崎は五百キロの道のりを飛ばし、昼過ぎに二風谷へ到着した。ゴルゴは満面の笑みを浮かべて浜崎を迎える。
「初めましてゴルゴです。ごいっしょさせていただけることを感謝します」
「えっ、聞いてないよ」浜崎がびっくりしてオレを見た。
「あっ、オレ言ってなかったっけ。三人乗れない?」そういえば、浜崎に確認をとるのを忘れていた。
「う〜ん、荷物が多いんで三人はむりだな」
「…………」ゴルゴは蒼白な顔で立ち尽くしたまんまだ。
「むりだとよ、ゴルゴ。じゃあまたな」オレは彫刻のように固まったゴルゴを残し、浜崎の車に乗り込んだ。
排気音に混じったゴルゴのつぶやきが聞えるようだ。
「なぜだ、なぜぼくだけがいつも、ひどい目に遭うんだ」
180センチの巨体が、18センチに縮み、ごま塩になって消えた。
「悪かったかなあ」浜崎が言う。
「いいのいいの、そうやって旅人は強くなっていくんだから」
オレたちはヒッピーキャンパーの聖地である富良野鳥沼キャンプ場を目指した。浜崎は冬のあいだ西表島にある南風見田(はいみだ)の海岸でキャンプしながらサトウキビ刈りをし、夏は北海道富良野の鳥沼キャンプ場で紹介された昆布漁をしていた。この渡り鳥的生活が長期キャンパーの王道である。
「な、なんだこれは、上野公園のホームレス村じゃねえか!」
富良野の郊外にある鳥沼キャンプ場 にはブルーシートがずらっと並んでいた。しかしシートの下にあるのは段ボールハウスではなく、こぎれいなテントなのだ。枝へわたしたヒモに洗濯物を干し、ガスコンロで食事やコーヒーを作る。炊事場にはさまざまなバイト募集の紙が貼られ、自転車や原付きバイクにのって仕事や買い物に行く。実に優雅な生活ではないか。
この道十年以上のキャンパー、HさんやNさんを紹介されたが、肩の力が抜けた実に感じの良い人たちであった。もちろん服装も清潔だし、そこらへんの読書家などおよびもつかないようなインテリなのだ。
常識さえとっぱらってしまえば、
自由に生きていく方法なんていくらでもある。
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8月22日(水)
マヤ暦1月28日
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昨日から生暖かい風が吹き荒れていた。
本州に上陸した台風が北海道に近づいている。オレたちは朝の5時にテントをたたみ、一路北へむかった。
美瑛(ビエイ)のなだらかな丘にパッチワークされた田園は、昔住んでいたフィレンツェ郊外の風景にそっくりだった。るるぶ系カップルが感動する「管理された自然」より、オレは荒々しい原野が好きだが、ゴッホの日記にたしかこんな話がある。
ゴッホが麦畑を描いていると、ある男が話しかけてきた。
「美しいな」
「まるで黄金の大海原ですね」ゴッホが答える。
「いや、この麦畑は大海原よりすばらしい。なぜなら人間がいるから」
自然と人間がぎりぎりでせめぎ合っていた幸福な時代の話だ。力関係は臨界点を越え、今や人間の目覚めによって「大海原」をとりもどすしかない。
しかし日本最後の砦アイヌモシリ(北海道)にはまだ、手付かずの原生林が残されている。奥深い森の一本道を疾走していると、「鹿注意」「きつね注意」の黄色い標識が飛びすさる。
旭川、美深(ビブカ)、名寄(ナヨロ)、音威子府(オトイネップ)をすぎ、天塩(テシオ)から日本海に出る(この日記を読むときは、高校のときの地図帳を広げてください)。サロベツ原野の海岸線には建設中の風力発電塔が立ち並び、利尻島と礼文島が大海原に浮かび上がる。
稚内の突端にある野寒布(ノシャップ)岬の樺太食堂で山盛りのウニ丼に食らいついた。3000円という値段に迷ったが、一箱以上もあるウニとイクラ、生ホタテ、カニ肉をお茶漬けのごとくかきこむ贅沢さよ! 北海の食、ここに極まれりといった感動だ。
金のないゴルゴを連れてきたら、さぞかしくやしい思いをしただろう。そうだ、悔しい思いをさせようと、ゴルゴの携帯にかけた。つながらないのでハン師匠に電話すると、驚くべき事実を知らされた。
「ゴルゴはSMの女王が迎えに来て、札幌にいった」と。
あの野郎、さんざん心配したオレがバカだった。オレたちに捨てられたおかげで女のマンションにころがりこめたわけだ。
しかもイジメのプロのところに。
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8月23日(木)
マヤ暦2月1日
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雨は降りつづいている。
台風は北海道に上陸したものの低気圧に変わり、心なしか雨足も弱まってきた。
昨日の午後に着いた稚内空港近くの緑と太陽の村というバンガローでくつろいだ。三角屋根の建物は二階までついて、たったの2000円(ひとり千円)。
浜崎がもってきた花村萬月の「自由に至る旅」を読み切った。バイクの旅を描いたエッセイは北海道のことがくわしく描かれていて、今のオレにはタイムリーだ。なにより「オートバイとは人を殺す可能性のあるものです」という出だしがすごい。
すごすぎる。バイクファンが気軽に読もうとするエッセイがこんな一行ではじまるとは! 地獄をくぐってきた者だけが言えるエンターテイメントの書きだしだ。
今さらながら告白するが、オレはほとんど本を読まない。
正確に言うと、読書家ではない。月に一冊読めばいいほうかな。最近は書くほうが忙しすぎて、読む時間がない。いや、時間は自分で作るものだから、読むより書くほうが楽しいのだ。
吹きすさぶ風のなかを、宗谷岬に立った。
左手に日本海、右手にオホーツク海をのぞむ日本最北端の地だ。ここのガソリンスタンドで補給すると、記念のペナントをもらえるらしい。黄色い三角の旗をなびかせているバイカーは多い。
オレの想いは岬に砕け散る波を遡上していく。
北海道を越え、樺太(サハリン)で暮らしていたアイヌは日露戦争によって北緯50度で分断され、日本とロシアという征服者によって家族は生き別れにされた。38度線で切り裂かれた朝鮮半島の悲劇も現代にはじまったことじゃない。国家という柵が発明されたときからくり返されている愚行だ。
キリスト教では「エデンの園」といっているが、アイヌもアメリカインディアンもアマゾンのインディオもアボリジニも、近代にはいるまで「所有」という概念はなかった。
自分の愛する人が恋敵に奪われ、子どもを産んでも、部族で我が子のように育てたという。現代の先住民を美化するつもりはないし、ドリームタイムという古きよき時代の話だ。おそらく「所有欲」や「嫉妬」は予防接種のごとく進化のために植え付けられたウィルスなのだろう。
オレたちはオホーツクにそって南下し、網走番外地へはいった。
番外地とはまさに番地のない網走刑務所のことで、現在も近代的なビルの中に囚人が囲われている。明治以来つづいた建物をそのまま観光名所として移転させたのが網走監獄博物館だ。
再現された鏡橋をわたり、監獄の入り口をはいると、囚人のような気分になってくる。ぶ厚い木造の牢獄は「五翼放射状平屋舎房」と呼ばれ、看守席から五棟にのびる獄舎を見わたせる。
実際に最近まで使われていた監獄をそのまま移したのだから、リアルだ。
いちばん強烈なのは、臭い。牢屋から囚人たちの酸っぱい臭いがただよってくる。ある脱獄囚は、分厚い木の扉についた鉄格子の根本に水やつばを流し込み、何年も揺すりつづけ、ついに鉄格子をはずし、脱獄した。天井の梁に彼の姿を再現したろう人形がはりついている。
戦時中はたくさんの思想犯がここに送られた。沖縄生まれの共産党の創始者、徳田球一は十八年をここですごした。彼がいた牢獄に展示されているコメントを読む。
「顔を出して眠らなくてはいけない、という規則がある。それをまじめに実行した新入りは、鼻と唇が凍傷になってしまう。たとえ布団をかぶって寝ても、布団の息がとおった部分が凍りついてしまうのだ」
シャケ一匹とったアイヌも収監された。国家も警察も牢獄も存在しなかったアイヌは、どうして人間がわざわざこの世に「地獄」を作りだすのか理解できなかったという。
こうして天の邪鬼主義diaryを書いてるオレも、他人事じゃない。当時同じことを書いていたら思想犯として逮捕されていたはずだ。
おみやげ屋で「網走刑務所」と書かれた下駄と、「保釈中」と印刷された木製のサンダルを買った。警察署の真ん前に住むオレが、「保釈中」サンダルをはいて洗濯物を干す姿を想像しただけで笑える。
屈斜路湖まで南下し、川湯温泉の近くのキャンプ場に泊まった。夜の八時から温泉街で「アイヌ踊り」というのをやるというので千円の入場料を払ってはいった。
中庭の正面にヌサ(祭壇)があり、熊の頭蓋骨やイナウ(房のように削られた神木)が飾られている。横切ったり尻をむけてはいけない祭壇の前で、浴衣を着た酔客たちがピースサインで記念写真を撮る。六人ほどの刺繍ばんてんを着た女性たちがアイヌの歌を披露する。
うしろの酔客たちがこんな言葉を交していた。
「アフリカの土人とおんなじだな」
その赤ら顔を殴りつけてやりたかったが、浜崎に止められた。悔しくて悔しくて涙が出た。
きっとオレはナイーブすぎるし、正義感に酔うのも危険なことだ。観光で食べているアイヌの人たちだって生活がかかっているし、客自身も自分たちのルーツをなにも知らされてはいない。
どうしてオレたちは、お互いをリスペクトできない社会を築いてしまったのだろう。
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8月24日(金)
マヤ暦2月2日
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やはり朝五時に起こされる。
羅臼で昆布漁をやっていた浜崎は早起きだ。電気の発明される以前の人々は、日の出とともに起き、日の入りから数時間たき火を囲んでだべったあとに眠ったのだろう。北海堂をバイクで旅するライダーやキャンパーも自然と早起きになるようだ。
川湯温泉近くにある硫黄山の駐車場の料金係もまだ出勤してきていないので、たしかに早起きは三百円の得だった。小高い山のふもとから吹き上げる煙は幻想的だが、オレは地獄を想像しない。噴火を山の怒りととるよりも、新しい秩序の出産と、オレは解釈する。
「霧の摩周湖」が奇跡的に快晴だった。
地形の関係もあるのだろうか、まったく人間の手が入っていない湖は空を映し、無数の青を階層化する。展望台の片隅にトリカブトの花を見つけた。可憐な紫の花からは想像もできないほどの致死毒を持つ。
トリカブトはアイヌ語でスルク・カムイと呼ばれ、何万年も前から狩りに使われてきた。毒性の強弱によって細かく分類され、なかでもケレプ・トゥルセ(さわったものをはね飛ばす)お姉さんとケレプ・ノエ(さわったものをねじ伏せる)妹のコンビが最強といわれる。それに毒グモや蜂の毒針やラウラウ(蛇のたいまつ)や南天星の毒芽や毒芹の根などを混ぜ、ヒグマをも倒す秘伝のオリジナルブレンドを作っていた。
摩周湖の少し北にある神の子池はこの世のものとは思えないエメラルド色をしている。この小さな池には摩周湖から一日1200トンもの水が湧きだし、たくさんのイワナたちが優雅に遊んでいた。
摩周湖の南東養老牛温泉の先にあるからまつの湯は川沿いの露天風呂だ。
男女の更衣室になる掘っ立て小屋がふたつ、石を積み重ねた三メートルほどの湯船がある。温度の調節には川の水を引き、岸の柳をながめながら野趣を楽しむ。温泉は原始的であればあるほどいい。あらゆるテーマパークがつぶれても、温泉は永遠に不滅である。
330度の展望が開ける開洋台は、地球の丸みを実感できる。
広大な釧路平野、標津(シベツ)岳、国後(クナシリ)までもがぐるりと見わたせる。満天の星をながめるためにここにキャンプするライダーたちも多い。
オレたちは一路、知床半島を目指す。
浜崎がつい四日前まで働いていた羅臼(ラウス)の浜には、ダシ昆布がていねいに並べられていた。海に浮かぶ赤いブイは養殖昆布のものだ。一軒につき百二十メートルと決められている。「熊のはいった家」という看板をかかげるライダーハウス、トドの肉を出す食堂、海洋深層水を売る会社、タンクローリーは昆布の乾燥室用のものだ。天然昆布は八月いっぱいまでで、昆布漁を終えた漁民たちは、サケやホッケ、スケソウダラやカニの水産加工工場で働くという。
ひかりごけをはじめて見た。
武田泰淳の小説では、極限状況に追いつめられた兵士が仲間を食べる。人肉を食った者はひかりごけのように発光するという。巨大な岩のくぼみに目を凝らすと、小さな苔が蛍光塗料のように輝いている。
パリ人肉嗜食事件の佐川さんを思い出した。佐川さんが彩流社から再出版する名作「霧の中」の帯をオレが書くことになっている。佐川さんがオレの家に泊まったときも同じ布団で眠ったし、深い魂のつながりを感じるソウルメイトだ。おそらくひ
かりごけとは、絶対零度の孤独をくぐった者だけが放つオーラなのだろう。
ラウス温泉野営場は富良野鳥沼キャンプ場につぐ長期キャンパーの聖地だ。
西表島の南風見田とここを往復する伝説のキャンパーOさん(五十五歳)を浜崎に紹介してもらった。Oさんは野営場を見わたせる高台にひっそりと暮らしている。富良野にサブテントをもち、ここでは仕事をしないでゆったりとくつろいでいる。ひとあたりのいい笑顔からは仙人だけがもつやさしいオーラを放っていた。
「カニ食い放題二〇〇〇円」
この看板に釣られてドライブインにはいった。一匹目のタラバガニは冷たいが美味しい。二匹目の毛ガニは小ぶりだがいける。ゆで立てといってもってきた三匹目のタラバがまずかった。もしこのあともう一匹食ったら、一生カニを食いたくなくなると思ってやめた。あとで地元の人から聞いた話では、タラバは似た種類のイバラガニ、毛ガニはクリガニだという。しかも死んでいたやつを何回も冷凍し直した捨てガニだ。やはり観光客相手の商売には美味い話などない。
根室市キャンプ場(無料)にテントをはった。
湿地帯がすぐ目の前にあるせいか、蚊が多い。
ちょっと飯を作っているあいだに、二十ヶ所も刺されてしまった。いよいよ明日は日本最東端納沙布(ノサップ)岬から北方領土を見に行く。
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早朝から重苦しい層積雲がのしかかる。
根室から納沙布岬へ至る道筋にはさまざまな看板が目に飛び込んでくる。
かわいいゴマフアザラシの絵に「信頼と平和を築く四島返還」というものから、昆布漁師の夫婦の絵に「返せ、北方領土」。なかでもオレがいちばん好きなのは、極悪なロシア人兵士の絵だ。兵士の顔が白熊や狼だったり、下手さかげんがフォービズム(野獣派)絵画を思わせる。おそらくどこかの右翼団体がゲリラ的に立てたものだろう、「島は奪われた!」と強烈なメッセージを放っている。
実際北方四島は火事場泥棒的に奪われた。
一九四五年八月六日に広島、九日に長崎に原爆が投下され、同日九日、ロシアは日露不可侵条約を無視し日本に宣戦布告した。
十五日のポツダム宣言受諾で太平洋戦争は終わったはずなのに、十八日からソ連軍は北方領土に上陸し、択捉(エトロフ)島、国後(クナシリ)島、色丹(シコタン)島、歯舞(ホボマイ)群島を占領した。これは国際法に照らし合わせても違法であり、現在も日本政府は北方四島を日本の領土とし、あくまで「占領中」との認識を崩さない。
「十七世紀以来、北方地域は日本が開拓し、日本人のみが定住し、日本だけの支配下にあった島々です」とパンフレットにはある。
この歴史認識を信じて疑わない人々を責めるつもりはない。彼らも自分たちのルーツを知らされていなかったのだから。
コロンブスがアメリカ大陸を「発見」したように、日本人も北方領土を「発見」した。何万年ものあいだそこに住みつづけてきたアイヌを自分たちと同じ赤い血が流れている人間と見なすことができなかった。
一七九八年、江戸幕府によって派遣された近藤重蔵と高田屋嘉兵衞ががエトロフ島に漁場を開き、行政府を置く。そして「大日本エトロフ府」の柱を建てる。
「風の子レラ」ではストーリーのリズムを重んじたためくわしくはふれられなかったが、北方領土返還に尽力を尽くす人々も、根室の漁師も、右翼団体の人も、主義や私欲を一度はなれてほしい。そして北方領土のことなど知らなかった人も考えてほしい、
「ふるさと」のことを。
誰もがふるさとをもっている。子どものころの思い出、両親や祖父母や祖先たちが暮らしてきた土地の記憶、甘く切ない原風景となって我々の郷愁をかきたてる場所だ。
この二百年、戦争というジャンケンで日本とロシアは陣地取りゲームをつづけてきた。
明治八(一八七五)年に樺太千島交換条約というのが日本とロシアのあいだに結ばれ、樺太に長年住みつづけてきたアイヌは「ふるさと」を追われ、札幌郊外に強制移住させられた。スラムの劣悪な環境から疫病が蔓延し、たくさんのアイヌが死んでいった。一九〇四年、日露戦争で勝利した日本はふたたび樺太を奪還し、わずかに生き残った樺太出身者は喜び勇んで「ふるさと」に帰っていった。わずか四十年後の敗戦で、また「ふるさと」を追われる。
身近にいるどんな友人よりも身勝手な「国家」をどうやって信じればいいんだろう。無知な政治家が、「アイヌは同化した」とか「日本は単一民族」などといまだに言っている。
北方領土は、日本でもロシアのものでもなく、何万年もそこに住みつづけてきたアイヌのものだ。
しかしアイヌも日本の移民も追い払われた北方領土には今、首都からもっとも遠い辺境で暮らす二代目のロシア人が住んでいる。
オレは右翼でも左翼でもないし、政治なんてわからない。
国籍なんかどうでもいい。
たとえ日本に返還されても、また戦争が起こってロシア領土になっても、
「ふるさと」を奪わないでほしい。
「ふるさと」を捨てるのも、残るのも、
国家のわがままでなく、人間の我がままにまかせてほしい。
雲や鳥や魚に国境がないように、人間にも自分で選ばせてほしいんだ。
風や水のように、生きたいんだけなんだ。
ぽっ。
ひさびさに熱く語ってしまった。
浜崎が働いた根室の民宿たかののお父さんは、ロシアの監視をくぐって魚をかすめ取る特攻船に乗ってきた人だ。視力も落ち、足も不自由になった。二ヶ月ぶりに再会する浜崎と初対面のオレにサンマの刺し身を奥さんが作ってくれた。舌先でとろける美味。
オレたちは「食うから生きている」
オレがほざいた歴史観など溶けてしまうほど、すてきな思いやりだ。
四〇〇キロの道のりを苫小牧にむけてひた走る。
フェリーの乗船時間はとっくにすぎ、すべりこみセーフで苫小牧発のフェリーに乗る。
今まで何度も二風谷にかよいながらも、北海道を車で旅したのは初めてだ。さまざまな出会いと、いろんなことを考えさせられた。
アイヌモシリは広い。
一言でいうと、それが実感だ。
二〇〇一年、夏の旅は終わった。
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