第一章 モロッコ

 「魅力」と「恐怖」は対立するものではなく、むしろ共存共栄する。
 そんな真理にあらためて気づかせてくれる国がモロッコだ。ジブラルタル海峡をはさんでスペインの南に位 置するモロッコは、キリスト教世界と戦いながらも、アフリカの玄関として栄えてきた。ヨーロッパ人にとっていわゆる異国情緒(エスニック)とは、このイスラム世界だ。
  ベルトリッチ監督の「シェルタリング・スカイ」のモデルになったアメリカ人作家ポール・ボウルズは死ぬ までタンジールに住みつき、ウィリアム・バローズ、ジャック・ケロアック、アレン・ギンズバーグなども訪れている。「泥棒日記」でサルトルやコクトーをひざまづかせたジャン・ジュネの墓がタンジールにあることはあまり知られていない。ローリングストーンズの初期メンバー、ブライアン・ジョーンズと画家ブライアン・ガイシンはモロッコの音楽に魅せられ、各地を録音しながら旅した。
  「魅力」は語ってもきりはないが、「恐怖」もまた実在する。
  僕の友人の日本人女性は、税関までぐるになった人身売買組織に誘拐された。彼女が閉じこめられた家にはスエーデン、ドイツ、アメリカなどの美女たちが五人ほど幽閉されていた。
機転の利く彼女だけは睡眠薬のはいったお茶を飲むふりをして捨て、ひとつだけ鍵のかかってないドアから逃走し助かったのだ。
 そんな話にビビリながらも僕は当時の恋人ニッキとスペインのアルヘシラスからフェリーでタンジールにわたり、フェズ、ラバト、カサブランカ、マラケシ、さらに南まで旅をつづけた。
  しかしニッキが原因不明の熱病にかかってしまった。ラバトの大学病院で治療を受けてもいっこうに効かない。頼るものといえばシャーマンたちのあやしげな呪術だった。



  

ああ、つきせぬ海のざわめきが
今夜もオレを眠らせてはくれない
夏の日の絶望は
どこまでもオレを追いかけてくる
地をはい
山をこえ
海をわたり
オレは必死で逃げつづけた
あの樹液でできた笑顔から
風邪薬のカプセルにつまったやさしさから

見あげれば無数の麦わら帽子が 夕焼け空に浮かび
巨大なスイカが 路地裏をころがってくる
カブト虫の兵隊に捕まったオレは
ピンク色の注射液を打たれ
十字架に虫ピンでとめられる
蒸し暑い縁側でもがきつづける 赤トンボの羽をむしったのは
ほかならぬ、オレ自身だったのだ!

ああ、つきせぬ海のざわめきが
今夜もオレを眠らせてはくれない
精霊たちが飛び交う森で
オレは道をなくした
魔性たちから逃れて
一軒の小屋を見つけた
わらぶき屋根の入り口からもれる呻き声
暗闇にうずくまる奇怪な生き物
両目をえぐられ
手足をもがれ
鎖につながれた
孤独な生き物
それは……
愛だ

ああ、つきせぬ海のざわめきが
今夜もオレを眠らせてはくれない
長い長い月日が流れ
水平線がひらけた
神々の宝をおおう巨大なハンカチーフ
浜辺に折りかえされたシワを カモメたちがつまみあげ
陸におき去られた人類たちは
選ばれざる哀しみに立ちつくす
染み透るように冷たい水が オレの汚れた足を洗い
1匹の蟹が岩場から はい出してきた
そのときだ!
葡萄色に引かれたカーテンのむこうから
大空を真っ赤に焦がして 身をもたげるひとつ目の巨人
一瞬、オレはこの海が 一匹の蟹のために創られたのを知った
世界がこの歓喜のために 創られたということを知ったのだ

足もとに落ちている 折れ曲がったストローで
オレは今からこの海を
一気に飲み干そうと思う



  茶

午後のミントティー
緑色に揺らめく樹海
ぼくは酸素ボンベのつけず泳いでゆく
なつかしいワカメをかきわけ
スルメイカと旧交をあたためつつ
ピンクのサンゴを盗むんだ!
抱きしめれば抱きしめるほど
この胸が傷だらけになるような
ピンクのサンゴを盗むんだ

どんなに太陽が目を光らせたって
海の底にはとどくまい
ぼくはパンツもはかずに潜ってゆく
サメ肌にゾクゾク感じたり
タコ壺に後ろ髪ひかれつつ
沈んだ宝を探すんだ!
欲しがれば欲しがるほど 遠ざかってしまう
沈んだ宝を探すんだ

「おっかしいな……
あいつ いつになっても浮き上がってこねえぞ」
一瞬 海面に広がる どす黒い血!
欠けた安グラスの縁で 唇を切ってしまった
午後のミントティー
緑色に揺らめく樹海



  病

倒れ伏した獣
黒いひたいに広がるサハラ
一筋の小川は塩田と化し
立ち昇る亡霊たちは
脳髄のジャングルジムで遊ぶ
哀れ今や
シマウマを追う足は萎え
子鹿を射すくめる眼光は消え失せぬ
皮一枚にくるんだ肋骨を波打たせ
枯れ草のベッドで死神と語らう
どこまでも陽は高く
果てまでも地は広がる

錆びついた蛇口からこぼれ落ちる点滴は
砂丘の下をくぐり
夢はジブラルタルを泳ぐ
祈祷用のろうそくは
呪文をつぶやきながら自らの肉片をぶらさげ
安ホテルの壁に染みついたトカゲは
おびえた子どものように厳かな儀式を見つめる
下りてくる天井
開かないドア
つい昨日まで見つづけた風景が
ガラス窓に描かれた絵だったなんて!

血とウロコ
肉とミミズ
ワキガとメロン
ションベンと香料
巨人がシャベルですくいあげたドブを
砂漠にぶちまけた
そこはメディーナ
テレビに顔をくっつけたことあるかい?
あれだ あれだ
交錯する色、色、色
乞食にぶつかり
ロバにぶつかり
しまいにゃ壁にぶちあたる
モスクとクソガキ
ばばあと精子
涙とフンドシ
絹とモク
腸も頭も胃もすねも
みんなごったごたに煮こんじまえ
みんなごったごたに
ごったごたに煮こんじまうんだ

そのトンネルを抜けてごらん
ほら、うっすらと明かりが射して
だんだんと滲みだしてくる風景
あれは海だ!
湾ぞいに広がるビーチ
岬の岩に立ち並ぶ白い家々
左手を見下ろせば一本の灯台
両手で命の水を抱え
背中には広大な墓地を背負っている
光りに立ちすくむ彼女の頬に
潮風が産毛をからかい
波のリズムが心臓のコップを揺らす
太い骨が自らの硬さをとりもどすとき
一羽のカモメが 青いキャンヴァスに突き刺さるのだ
海の慈愛とその怒りがみなぎるとき
一本の灯台が 天に打ち上がるのだ

鼻の頭にとまった蝶の羽ばたきで
獣は目覚める
すり切れた毛皮
節々の痛みが
脳髄に記憶の波をそそぎこむ
獣はたてがみをふって 昨日までの苦悶を忘れると
のろのろと
太陽の王国へもどっていった



  漁

カメレオン皇帝のスープのうえを、チクワを釣り上げた漁船がとおる。
月が自腹でつくったゴールデンネオンの吊り橋はあがり、人々は歓声をもって漁師たちを迎える。
豆腐屋のリンリン・ランランはモヤシの花飾りを水夫たちにかけ、カモメ娘たちのキス責めで船員たちの顔は穴だらけだ。
カピタン亀吉が胴上げにあい、いつサバ折りを喰らうかビクビクしていると、TV局の連中が男根に丸いスポンジをつけてインタビューにくる。
「毎日が砂を咬むような生活でした」機関室長エンリケ鵠沼が言った。
しかし海の上に砂がないことなど、マラケシ区立メディーナ尋常小学校の生徒たちにもわかることだった。
「毎日ハリマオ踊りを踊っていました」ボイラー技師ギョエテ為右衛門が割りこんできた。
しかしハリマオ踊りは摂氏六〇〇度に熱された石炭の上で踊られるため、生きて生還できないことなど、カサブランカ婦人会合唱部所属のウグイス嬢でもわかることだった。
人気俳優マカレンコと「ずいずいずっころばし」をしたことが暴露された女子穴カレーニナが、視聴者の怒りを恐れて話を変えた。
「それにしてもチクワを釣り上げたときの手ごたえはどうでした?」
「ええ、しっぶれるようだんなん」水先案内人ゾルゲ治五郎が真剣な眼差しで答えた。
「とってもスカッとしただ」料理長つねやんが本音を吐いた。
それを聞いた桃割れ娘は「チクワ」と「水夫の孤独」の関係を深読みし、もじもじっとコタツのなかに隠れてしまった。
画面では釣り上げたチクワを囲み、フンドシに入れ墨姿の水夫たちが任侠ポーズをとっている。
コマーシャルがはいり、闘牛士ホセリート吉野が血まみれのシーツをなびかせながら出てくる。夫殺しで服役中のスゴンザック梅子が洗剤を突き出しながら言う。
「どんなに苦しい思い出も、血糊といっしょにきれいさっぱり」
画面がスタジオにもどり、世界海洋事務局長アボガドロ菊池が口泡を飛ばす。
「これは産業革命以来の奇跡です。このようなことが証明された今、工業社会自体が壊滅的な打撃を受けます。なぜなら魚を加工して商品化するプロセスが抜け落ちてしまうからです。消費者は自家用船に乗って直接海へ買い物に出かけるでしょう」
ペシッ!
世界海洋事務局長の右後頭部を奥さんがハエたたきで打った。
「ねえん、もう三日もないんだからあん」

カメレオン皇帝のスープのうえを、チクワを釣り上げた漁船がとおる。
しかし怒った皇帝は、長い巻き舌でチクワを一気に呑みこんでしまった。



  朝

真夜中に目覚め 顔を洗えば
見慣れぬ男がそこにいる
水垢のたまった洗面台
冷たいタイル
そこを横切る 一匹の虫
水滴を垂らし
脂汗をかいて
いったいどんな悪夢が
彼をこんなに老けこませてしまったのか
回る回る回る
星が目玉がコーヒーカップが
回る回る回る
毒が時代がパラソルが
世界が音を立てて崩れさった夜
瓦礫のなかからはい出す
一匹の虫

ベッドに腰かけ 耳を澄ませば
聞き慣れぬリズムが オレを呼ぶ
夕暮れの高原
川沿いの丘
そこを横切る 一匹のウサギ
息を切らし
声を枯らし
いったいどんな希望が
彼をそんなに追い立てていたのか
走る走る走る
風が痛みが飛行機雲が
走る走る走る
時が寒気が弾丸が
ざわめき立つ様々な現象に 眼を見張りながらも
戦場を鮮やかに駆け抜けていく
一匹のウサギ

明かりを落とし 眼を閉じる
もしも再び 目覚めることができるなら
朝に
願わくば朝に生まれ落ちたい
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