アンディーじいさんの一生


本名アンドリュー・ウォーホラはおそらく(ってのは彼は聞かれるたびに違う答えをするし、出生証明書も偽物だと言っている)1930年、ペンシルヴァニア州フォーレストシティーに生まれた。両親はチェコスロヴァキアからの移民で、おやじは貧しい炭坑夫。リュウマチ熱や神経性の舞踏病に悩まされる病弱な少年は、部屋に閉じこもったまま切り絵や塗り絵をして遊んでたんだ。
1949年ニューヨークへ移住。チノパンにおんぼろスニーカー、おまけに作品はそのまんまもろに紙袋に入れて、たくさんのアートディレクターに売り込みに行くのが日課。(この営業癖は成功した後も死ぬ まで続けられるんで、一般に言われてるのとは逆にオレは営業によって得られる”利益”よりも、”営業”そのものが好きだったんじゃないかと思う)
そのかいあって早くも「グラマー」からエッセイにつけるイラストの依頼が来る。しかしそのタイトルが笑えるわな「成功こそがニューヨークでのJ0B」ってんだから。続いて婦人靴のシリーズがその成功のきっかけとなる。
早くも彼は独自の技法をあみ出していて、インクをはじく紙に描いたイラストを一度厚いティッシュのような紙にとり、それをインクのしみやすい紙に押しつける。すると途切れ途切れの線が不思議な繊細さと気品を帯びてくるんだ。
一度CBSラジオの犯罪ルポの仕事でヘロインを注射してる男を描いたのも10年後のファクトリーの混乱を象徴してなくもないわな。
とにかく彼は他人が望むイメージを形にするのがうまかった。締め切りもきちんと守り、仕事は順調に増えてゆく。
そんなある日、ブザーにドアを開けると、ジュリア母ちゃんが「わたしのアンディー」って抱きついてきた。「どうせ2、3日でペンシルヴェニアに帰るだろう」思っていたら、そのまま15年以上も母親と二人暮らしを続けることになる。
50年代後半にはいると、数々のアートディレクターズ賞をものにして、彼のコマーシャルアーティストとしての地位 は不動のものとなるんだ。しかし彼はある種のジレンマ、コンプレックスに悩まされてた。ポップの先がけとして、ジャスパー・ジョーンズやロバート・ローシェンバーグが頭角を現してきた頃だ。アンディーは彼らにあこがれ、その作品を買ってもいるのに、二人には商業アーティストととして見下されてる。つまり彼はこう気づく「商業美術では本物のスターになれない」ってね・・・
この後の劇的転換は背筋の寒くなるような冒険だぜ。常に自分の欲望に忠実だったアンディーは、長年かかって到達した繊細なドローイングを何の未練もなく捨てちゃい、いよいよあのクールで野蛮なポップアートの創世に入ってゆくんだ。
そして早くも60年にはポパイやディック・トレーシーの漫画をモチーフにした作品を仕上げてた。にもかかわらず、61年にジャスパー・ジョーンズのドローイングを買いに行ったレオ・キャステリギャラリーでリキテンシュタインを見せられる。このふたりの天才は知らず知らずのうちに、同じモチーフを取り上げていたんだ。
芋を塩水で洗う猿たちが、何の連絡もなしに隣の島へと伝播するように、時代の空気の中に含まれる未来へのメッセージを敏感なアーティストたちは同時に嗅ぎとる。
このようにポップアートは何らかのグループも計画も必要とせず、一斉蜂起する。
しかしレオ・キャステリはすでにリキテンシュタインと契約を済ませていて、ふたりもコミックストリップの作家はいらなかった。アンディーは落胆する間もなく、ロス・アンジェルスのフェリスギャラリーであの「キャンベルスープ」を発表する。
言ってみれば、「まるちゃんの赤いきつね」が芸術として展示されたわけだ。あまりのばかばかしさに向かいのギャラリーでは実物のキャンベルスープを積み上げ、「本物を29セントでお持ち下さい」と皮肉ったほど。こんな感じでアンディーの作品はいつも他人を挑発するだよな。
62年のニューヨークで初めて開いた個展では「ドル札」シリーズが発表される。このふたつのアイディアは、(諸説あるが)ミュリエル・ラトゥウ(アンディーの友人で当時つぶれそうな画廊のオーナー)から50ドルで買ったものだ。
「あなたもわたしも、一番ほしいものは何かしら?」
「・・・」
「お金でしょう?それを描いたら?」
「129人ジェット機事故で死亡」もゲルツァーラーからもらったアイディアだ。これをきっかけに「交通 事故」「電気椅子」「飛び降り自殺」「人種暴動」などの「死」のシリーズへと続く。
そしてモンロー。なんとモンローの作品を作り始めたのは彼女の死の翌日だと言う。63年11月にケネディーが暗殺された直後にも未亡人ジャクリーヌシリーズをはじめている。
知ってのとうりこの時代アメリカは、ヴェトナム戦争、人種問題、ヒッピームーヴメントなど未曾有の混乱に突入してゆく。西海岸の若者たちが、ティモシー・リアリーなどにあおられ「ターン オン チューン イン ドロップ アウト」「ラヴ アンド ピース」「フラワーチルドレン」などと脳天気にアシッド食らってほざいてた時代だ。
その頃、イースト47stにあった伝説のファクトリーに集まってきた連中はアンフェタミンからヘロインに行き着いた。ポール・モリッシー、ジェラード・マランガ、オンディーヌ、ブリジッド・ポーク、イングリッド・スーパースター、ウルトラ・ヴァイオレット、ベービージェーン・ホルツァー、ヴィヴァ、イーディー、たくさんのゲイ、倒錯者、ジャンキーなどありとあらゆるはみだし者が銀色のアルミホイルで覆われたアンディーの神殿にたむろって、15分間のスターを夢見てた。映画に転向していたアンディーは彼らをさりげなく、しかし容赦なく、狂気と破滅へ導いてゆく。
「ヴィニール」でデビューしたイーディーは、アンディーが欲しがってた名門の血統と天性の美しさを備えた少女だった。少しでもアンディーに似せようと髪を銀に染め、サインを頼まれると「アンディー・ウォーホル」と書いた。ヴェルヴェッツの演奏に踊り狂う彼女の姿はあらゆる人を魅惑し、「ライフ」「タイム」「エスクァイヤ」「ヴォーグ」を飾った。フィラデルフィアで行われた個展のオープニングはアンディーとイーディーを見に4000人のファンがつめかけ、絵を全部外さなければならなかった。「13人の最も美しい少年たち」に出演したフレディー・ハーコが踊りながら飛び降り自殺をしたとき、アンディーが言った。「ちくしょう、撮り損なった」それを聞いたイーディーは自分の未来におびえた。案の定アンディーに使い捨てられたイーディーはLSD、スピードからヘロインにはしり、カリフォルニアの病院で狂死した。
その点ヴェルヴェッツはアンディーと対等に利用しあうしたたかさを持ってた。トンプキンパーク沿いにアンディーがプロデュースするドムで凶暴なうなりをあげる彼らの演奏は、あのバナナアルバムでさえ10分の1も伝え切れてない。にもかかわらずアンディーの提案でニコを受け入れた彼らは、今さらながらアンディーの先見にうなずかざるをえない。なぜなら、解散して現在に至るまでルーもジョンも当時の演奏を越えることは出来なかったからだ。ニコはイギー・ポップに「オマンコのなめ方」を教え、ジム・モリスンをシャブリ倒し、88年自転車で転んで死ぬ まで生きのびた。
たくさんの人間を破滅に導いたアンディーも、1968年6月3日全男性抹殺を標榜する急進的フェミニスト、ヴァレリー・ソラナスに狙撃される。血塗れになって床に倒れたアンディーにビリー・ネームが叫びながら駆け寄った時、「お願いだから、そんなに僕を笑わないでくれよ」って言ったまま気を失った。
リチャード・アヴェドンの写真やアリス・ニールのポートレートに見られるように、生々しい傷跡を残しながらもアンディーは2ヶ月後退院した。
ファクトリーは移転し、そのドアは閉ざされる。
69年アンディーは「インターヴュー」を創刊し、映画から雑誌へと転向する。
71年母ジュリアをアルツハイマーのため兄たちのもとへ送り返したが、72年脳卒中で死去。クリスマスのたびにそのことを思い出し、罪悪感に囚われるという。
70年代以降も「毛沢東」や「10人のユダヤ人」「ダイアモンドダストシリーズ」「神話シリーズ」「シャドウズ」やいくつかの肖像画の傑作を残すが、デュシャンがチェスに転向したように、アンディーはパーティーをライフワークとして暮らした。
そして1987年1月。20日(金)ただの胆嚢障害で入院。21日(土)胆嚢摘出手術。学校でオレたちは「アンディーじいさんは不死身だからな」などと話していた。夜のニュースでは「手術は成功」と言っていたので胸をなで下ろしていたが22日(日)早朝、死亡。
新聞を見た時、古いギャグだと思った。
最初に笑ったのを憶えてる。
ヴェルヴェッツの「サンディーモーニング」の明るいメロディーをくちずさんでた。
「愛なんて、むずかしすぎて僕にはわかんないよ」
「僕はロボットになりたいんだ」
「僕のことを知りたきゃ、絵を見てくれ。後ろには何もないから」
「何が一番好きかって?決まっているじゃないか!退屈だよ」
「どんな仕事だって、僕は一生懸命やるさ、JOBはJOBだからね」
「君がどんな答えを聞きたがっているか言ってくれ。その通りに答えるから」
「もうこのくらいで、うそは十分だろ?」
悲しくはない、ただただ何もかもが空っぽだった。

アンディーじいさんの死後も奨学金は財団によって、オレが卒業直前にニューヨークを去るまで続けられた。
しかし彼の死は一つの時代の終焉をオレに感じさせた。入る限りのキャンヴァスをトランクにつめこんで、真冬のニューヨークを去った。

HOME